精神科医の“のほほん”ノート

診療に関係のあること、ないこと…ちょっと肩の力を抜いて“のほほん”と書いてます。

2005年

04月27日

(水曜日)

担任の先生はスゴイ。

今日は自分が担当している患者さんの学校の先生とお話させていただく機会の多い、とってもわくわくする日だった。

いつもそうなのだけど、学校の先生と初めてお話しできるときは期待いっぱい、不安ちょっぴりという感じ。
患者さんに診察室でたまにしかお会いできない自分なんかよりも、先生方は普段からその生徒さんと接している時間が長いわけで、治療をよい方向に進めていく上で先生方から教えていただける情報はとても貴重だし、ぜひお力を貸していただきたい頼もしい存在。
一方で、もうちょっと先生方に違う感じで関わっていただけたらいいのになーと残念な気持ちになることもあったりするわけで…それをそういう方向に気持ちよく変えていただくのも私の仕事、と言われればそのとおりだけど…

今回お話させていただいた先生は本当に素晴らしかった!!

患者さんの元担任だった先生からいろいろお話を伺ったのだけど、なんとその先生、患者さんの症状が出るより1年以上も前から、担任として関わってくださる前からずっとその子に注目しておられたというのだ。ごく普通に学校生活を送っているように見えたその子の本当にほんの小さな行動の特徴をとらえて、いろいろな場面での行動をそっと見守っていてくださっていた。

…もうありがたすぎます、本当に。さすが、先生ご自身の(おそらく天性の)インスピレーションに加えて、ものすごい数の生徒さんと接してこられた経験で研ぎ澄まされた教員としての観察眼には感服してしまった。おかげで診断に関するヒントもたくさん得られたし、今後の見通しもずいぶん自分の頭の中でスッキリとさせることができたように思う。

あとはこういう貴重な情報を生かして、少しでも患者さんの治療に役立てていくのが私の使命というもの。先生の惜しみないご協力を無にしないように明日からもがんばろうっと♪

2004年

10月13日

(水曜日)

不登校の定義

「うちの子が不登校で心配なんです」と親御さんが相談に来られる。
もちろん、自分のこどもが学校に行かないとなると、たいていの親はとても心配するだろう。
でもお話を伺っていると、毎朝「学校行きたくない」とはいうものの欠席は今年度に入って3日だけ、などということも案外多かったりする。それって不登校なのかしら…?

それなら『不登校』の定義ってどうなってるの?という疑問がわいてきた。

調べてみたら、『年間30日以上の長期欠席者のうち、何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により登校しない、あるいはしたくてもできない状況にある状態』と1998年に当時の文部省が定義しているようだ(…もしかして、このあと定義が変わったりしてるのかな?)。

身体的要因で30日欠席しても不登校、ということは、本人は学校行く気満々なのに部活で大怪我をしたりして「1ヵ月は自宅で安静にするように」なんて言われたら、もう不登校ということになってしまう。こんな状況で「あーあ、これでキミは不登校だねぇ」なんて言われたらカチンときそうだ…たぶん誰もそんなこと言わないと思うけど。

逆に、いわゆる情緒的要因があったりして学校に行きづらい・行きたくないとしても、本当にしんどいとき月に1-2回休むだけだったり、教室には入れなくても保健室やふれあい教室になら登校できるのであれば、それは真の不登校ではない、ということになる。こちらのケースのほうが不当に不登校呼ばわりされたりして、さらに苦しくなっていたりすることが多いのかもしれない。

不登校、っていうとすぐに「心の病気だ」とか深刻なイメージに結びついてしまいがちだけど、意外と本当は不登校と呼ばれる筋合いのないひともたくさんいるし、仮に不登校に該当したとしても必ずしも暗〜い心の闇と結びついてるわけでもない、ということだ。
不登校を定義しなくちゃ統計の取りようもないお役所の事情もよくわかるけれど、所詮コトバの定義なんてその程度のこと。不登校というコトバのイメージがひとり歩きして、不登校と呼ばれることで余計にしんどい思いをするひとが増えなければいいなぁ、と思ってみたりする。

大事なことは「不登校かどうか」ってことじゃない。不登校でも、そうじゃなくても、つらい思いをしているひとがいるならお役に立てれば、これ以上嬉しいことはないんだけどな。

2004年

09月06日

(月曜日)

不登校の原因って…

最近まで診ていた、ある不登校のこどもさんのご家族から今日電話をいただいた。

夏休み中はいろいろな事情で来ていただくことができなくて、2ヵ月弱ぶりのお話となった。

とても心配していたのだけれど、夏休みは元気に過ごせたらしく、なんと2学期になったら毎日普通に登校しているらしい。とっても嬉しい報告に思わず顔がほころぶ。

しかし、ご家族が言われるには
「それはまぁひと安心なんですけど…、」

なんだなんだ? 新たな問題発生???

「…先生、原因は何だったんでしょう?」

うーむ、そう来たか…。仕方なくこう答えてごまかす。
「いやぁ、何だったんでしょうねぇ(笑)?」

医学というものは、だいたい原因と結果=症状がはっきりと結びついているものだ。
細菌が体内で増殖すれば熱も出るし喉の炎症も起きる。
花粉に対してアレルギー反応が起これば、くしゃみや鼻水が出る。
刃物が身体に刺されば、痛みや出血がある、などなど。

だから、その原因に対する治療を行えば結果=症状が消失する。
増殖した細菌には抗生物質。
花粉アレルギーなら抗アレルギー剤。
傷から出血していれば止血して縫合、などなど。
これまでに蓄積されてきた医学的知識で、特定の原因による症状には特定の対応をすればいいことがどんどんわかってきている。だから原因をつきとめることがとても大切になってくる。『原因→結果』、こういうのを直線的因果律という。

ところが、ココロの症状だとそうはいかない。
不登校の原因なんて、たぶん患者さんひとりひとりでみんな違う、と言ったっていいくらいだと思う。
原因がわかったところで、抗生物質を飲むような根本的な解決策はないことだって多い。
(たとえば、「クラスの雰囲気がなんとなくイヤだから」とか、「この子に根性がないからだ」とか。)
そして、ホントにそれが不登校の原因(それも、たったひとつの原因)なのかどうかは誰にもわからない。たぶん本人にだってわからないだろう。

それでもヒトは答えを、原因を知りたがる。
もちろんそうやって答えを見つけることで医学やそのほかの学問・文化が発展してきているのは間違いないし、原因を知りたいというのは人間の当たり前の欲求なのかもしれない。

でも、きっとわからないほうがいいことだってある。ココロの症状の原因だってそうなんじゃないのかな、と思ったりする。

原因らしいものが見つけられると、誰かが傷つくことが結構多い。
学校に行こう、行かなくちゃと思ってこんなにがんばってるのに「この子に根性がないから…」と言われたら、どんなに悲しいだろう。
去年まで元気に登校していた子が不登校になって「今のクラスの雰囲気がなんとなく嫌だから…」と言ったら、新しい担任の先生はどんなに心を痛めるだろう。

「原因はコレだ」とコトバにした途端、ホントかどうかわからないのにすごく真実みたいな気がしてくる。これ以上がんばれないところで自分が原因だと言われ、それが真実だとされてしまったら…?

原因への対応、と考えたら「あなたがもっとがんばればいいのよ」ということになる。そして、ほかのひとは肩の荷を下ろしてもいい、がんばらなくてもいい、ってことにもなるかもしれない。

…少なくとも私がこんな状況にあったら絶対がんばれないし、がんばる気力もわかないと思う。

だから、私は原因をつきとめるとか、原因を作るっていうのがキライ。
症状がなくなったのならなおさら、もう原因のことなんか気にしなくていいじゃん、って思う。

誰も傷つかない原因を見つけ出すのなら、喜んでやるけど…ね。

HOME